イザヤ60:19−22/フィリピ2:12−18/マタイ5:13−16/詩編67:1−6
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)
レントの期間に四谷新生幼稚園を卒園されたという50代のご夫婦が初めて礼拝に出られたことがありました。お二人はそれぞれ所属している教会があって、その他にも様々な教会の礼拝に出席されているというお話でした。
今年のレントの期間は、イエスが弱さを選び取ったということを主題として聖書に聞く礼拝を続けていました。特に逮捕から処刑に至るまで、イエスは一言も反論せず、自分の運命を受け入れてゆきます。神の子たる力を誇示することはありませんでした。あらゆる力を剥ぎ取られたかのように無力で、弱さを人々に晒していたのです。まるでそうすることこそが神の御心であるというような。そして神もゲッセマネ以後、一言も発しませんでした。イエスが十字架の上で叫ばれても、神は応えない。神もまた徹底的に無力を選び取ったのです。そういう説教をしていたわけですね。
そのご夫婦の内、ご主人はいわゆる福音派の教会との関わりが長いということでした。だから神やイエスの無力、弱さが強調される説教を聞いたことがないということを、ティータイムで説教への感想としてお話しくださいました。
確かに、一般的に「神」と言えば人間の想像を超えたパワーを持つ方としてイメージされます。その「神」に愛されていると宣べ伝えるのがキリスト教ですから、わたしたちも信じさえすれば神さまから無限のパワーをいただくことが出来るということなのかも知れません。どういうルートでか思い出せませんが、いつの間にか私の手もとにあるキリスト教の伝道のためのパンフレットのタイトルは「パワーフォーリビング(生きるための力)」です。
イスラエルのイラン空爆を後押しするようなアメリカのイラン攻撃がありました。その日トランプは自分のSNSに「今こそ平和の時だ」と発信した。そしてイスラエルのネタニヤフは「繁栄と平和な未来を導く」とそのアメリカを称賛しました。彼らは盛んに「力による平和」と言い続けます。見かけ上プロテスタントの国であるアメリカと、ユダヤ教の伝統にあるイスラエルが共に「力による平和」と言うとき、そこに「パワーフォーリビング(生きるための力)」をイメージしてしまう。私はもちろん現代アメリカを全能の神の化身だとは1ミリも思わないし、ましてやあのイスラエルが旧約聖書に書かれているあのイスラエルの継承者だともこれまた1ミリも思いません。だから彼らの行為が「神の意志」だともまるで思わない、むしろ悪魔の行為だと思います。しかし、やはりキリスト者の中には、それも案外多くのキリスト者は「神=力」と考えるのでしょう。キリスト者といえど、いや、キリスト者だから却って力を渇望する。それが見かけ上「神の力」であればなおさら。さらに加えるなら、その力が大鉈として振るわれるとき、それが振るわれるのは自分ではない。悪いのは自分ではなく外にいる誰かであって、その悪が神の力になぎ倒されることが「神の救い」だと考える。
わたしたちはそこまで大それていないまでも、でも例えば「クリスチャンなのだから、『地の塩』であるべきだ」とか「クリスチャンは『世の光』であるべきだ」とは思うかも知れません。この世に光を掲げる存在、この世で塩味を付けられるのは塩以外にないのだから、神を正しく知っている者として「世の光」「地の塩」であり続けよう。そのくらいはやはり考えるのではないでしょうか。
しかしちょっと厄介なことがあります。「塩に塩気がなくなれば」(13)という言葉は塩に対する戒め、もっとしっかりした味を保てとハッパをかけられているように読めますが、使われている単語は「moros」直訳すると「愚かな」という意味なのだそうです。つまりイエスは我々が愚かになってしまわないようにと言っているのです。さらに「世の光」(14)は「隠れることができない」(14)ものとして示されています。つまり、「愚かにならない程度の」「隠れることが出来ない程度の」ということを示しているのではないか。そして決定的なのは、これらの言葉がいわゆる「八福の教え」の直後に置かれているということです。世の価値観をひっくり返す「八福の教え」の展開の最初が「地の塩」「世の光」なのに、ここをそんなに勇ましい意味で読んでしまったら、どこに価値観のひっくり返りがあるのでしょう。
ましてこの「地の塩」「世の光」に「パワー」を重ね合わせたらどうなるでしょう。わたしも時々料理をしますが、ビンビン塩味を付けられた料理など食えたものではありません。21世紀の東京だからこそ、街のあかりを超える明るさを求めるとしたらとんでもない光量ですが、そんな強い光は、他の全てを一緒くたにして個性を殺してしまうに違いありません。塩はほのかだからこそ良いし、真っ暗な中にいるときには蛍一匹だって明るいのです。
パウロはそんなわたしたちのイメージを「世にあって星のように輝き」(フィリピ2:15)と表現しました。どんなに強い光の星でも、満月には負けます。東京の街明かりにもほとんど負けています。パウロはわたしたちに太陽に次ぐ光量なんて求めていないのです。でも、必要な人には届く。他者を凌駕するパワーなんて必要ない。平和のために力が必要だなんて幻想かもしくは悪魔の誘惑です。夜空に見えるか見えないか程度でも星は星。ほんの僅かでも他の食材の味を生かすために溶け去る程度の塩で良い。それが「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられる」(フィリピ2:13)神の働きなのだとわたしは信じているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。全知全能の力は神さま、あなたにこそふさわしいのです。わたしたちが神さまに成り代わって、あなたの力を欲しいままに振る舞うことなど、あなたはお許しにならないでしょう。そうではなく、互いが神さまによって生かされる、そういう関係を命懸けで創ってゆくことをこそ、神さまは求めておられると信じます。踏みにじられ捨てられる塩ではなくて、他の食材を生かす塩に、凹凸も個性も全て真っ白に塗りつぶすような光量の光ではなくて、困っている人苦しんでいる人が見出せるように隠れないで灯を掲げ続けるものに、どうぞわたしたちを造り上げてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。